ソロソロ

2012.5
14

今回のソロについて。

 

何かをつくるときには直感で書き始める絵描きのような人もいれば、入念にやりたいことを探してそれについてのデータを集め、自分をとおして具現化するアーティストもいるとおもう。

今回のソロをつくるにあたり私のはじめの一歩はイメージとだったようにおもう。どんな感じの衣装を着てどう立っているか、、みたいのがあった。で、その奥には何のコンセプトがあるのかを探っていくという作業をしている気がする。

結果他の人は決してコンセプトなんか分からないと思うのだけれど、やっぱり、動く動機みたいのはつくる側ににあるものだとおもっています。

今回は15分のソロ作品というわけにはいかず、やはりそれなりの時間(私がソロ作品として公演をうつぎりぎりと思う長さ)が必要だと思ったのでただ一つのイメージがわいたところでその連続性を考えるとつながるのかものすごい不安。カンパニー作品では1時間程度の作品にはいつも当たり前のように出演していたのだがかなり事情が違う。なので最近ではソロをやっているというだけでその方達を尊敬してしまうという自分がいる。

 コンセプト、につい捕らわれすぎてしまうことがある。でも、

結局は生きてきてみてきたこと、思ったことをえがく事しかできないとおもっているし、身体で表現することも自分で体験したことでしか出すことができないので、自分のこと、、をやることにした。

 

最近みた、といっても去年だけど、美術館で21_21デザインサイトとい美術館でみた佐藤雅彦さんの監修する「属性」の企画展「これも自分と認めざるをえない」展がとてもとてもおもしろくて、その影響はおおきいかもしれない。

私は人と同じようにいきているつもりが、こんなにも違う感覚感性を持ち、違う常識の中で生活している。そして、こういうときにこういうおもい、泣いたり、笑ったり、不愉快になったりする。
考えるときに左上をみる、何か左右を選択する時は左をえらぶ、飴は途中でなめるのをやめてまた包み紙にもどす、おなべのにお玉を入れたままふたはしない、悪いこと考えると鼻がツーンとする、
とにかく自分では合点がいく日常のことが必ずしも他人も同じかというとそうでもないことが多い。そして、何よりも自分が一番自分のことを知っているようで知らなかったりする。
こういう日常のこともそうだし、
社会における自分という存在。名前があり、家族がいて、戸籍があり、仕事場、学校、自分を表す公的身分証明書、社会のなかで、自分を認識、存在を証明するものが多々ある中で当たり前のように生活しているけれど、ひとたびそれもがなくなったら自分というものは何なのか、自分が社会にとってないものになること、を考える。
社会と自分との関係がいかに関係性があるかということを感じざるを得ない。

一人での稽古は孤独すぎて好きでないのだけれど鬱屈した時間の中で何かこの孤独を忘れるような瞬間がうまれれてくれば今回のソロの核になってくるのでは、、、と思います。

がんばろう。

 

 

 

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